Hatena Blog 1号

興味がころころ変わるので、テーマは特にありません。というか写真限定のブログにしてみるか?と思うもあちこち書くのがいや。

限界がないことは良いことなのだろうか?&御茶ノ水近辺ぶらり途中下車

『つぶやきをまとめれば日記になる』というのはいかにも安易な考えだと思う。少なくとも自分は首を傾げる。

ランダムなつぶやきを並べたところで振り返りに値する情報になるのだろうか?仮につぶやきを日記にするとして、分量的にも1日を振り返るのに何ツイートが妥当なのだろうか。

自分なりの意味付け、価値付をして、それを振り返るようにしなければならないと思う。でなければ振り返る価値もないし、時間的に振り返ることも無理だろう。

例えは、レコーディングダイエットの様にダイエットという点から『自分が口にしたもの』を記載するのはわかるし、ダイエットの役に立つ。家計簿なんかもそうだろう。

しかし、『思った』『感じた』という類の印象は経験上振り返る価値はない。それを再読して『自分はあの時こう思ったのか』と感じることはない(自分の印象論なのだろうか?)。そもそもだからなんなのか?と思う、というか思った。

垂れ流し情報は日記ではないと思うし、おそらくそういう情報のほとんどは二度と振り返ることなく忘れ去られて行くものではなかろうか。

また、写真もデジタルカメラになって、枚数を気にすることなくたくさん写真を撮ることができるようになった。

しかし、物理的に何万枚もの写真を後になって振り返ることは可能なのだろうか。『振り返り』を意識することなく保存されたデータは意味はあるのだろうか?

デジタル化によりなくなってしまった『量の限界』みたいなものに意味はあったし、限界があるがゆえに、可能だったこともある。

ここまで書いておいて、このことは単に『技術革新によるバラダイムシフト』ということで自分の中で方がつきそうなのでこれで辞める(最後にそれかよというツッコミはおいておいて)。

さて、御茶ノ水界隈でわずかばかりですが写真を撮りました。大学時代によく通いましたので懐かしい限りです。
まずは医科歯科大。学生時代もそして今もあまり縁がない。言っている人はきっと言っていたんでしょうね。

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丸ノ内線からおりましたので、出口から御茶ノ水方面を撮影して見ました。(自分的には、中央線や千代田線から学校に通っていたのでこの角度の印象が薄い)。
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聖橋と中央線。自分的にはこのポイントが最も好きですね。聖橋のアーチが美しく、そこに中央線が走って行く、昔から多くの人々が見たであろうこの景色はやはり美しいと思います。
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中央線のホームから見た聖橋。しかし、御茶ノ水駅は変わったところにありますよね。聖橋出口のそのまた向こうにも今は使われていない出口がありますし(興味心身)。
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日を改めて神保町から御茶ノ水をのんびり歩いて見たいですね。学生時代、携帯を持っている人は少なく、しかもカメラ付き携帯はまだありませんでした。カメラ自体が特殊な趣味の様な感じでした。

あの頃もっとのんびりと周りを見渡し、散歩しておけば良かったと悔やむばかり。年齢を重ねた今もせせこましく生きることになってしまった(笑)。自分が立っている場所から見える風景を意識して生きて行きたいものです。